続100名城No.166 宇陀松山城訪問記
2018年5月4日
朝から千早城、高取城を巡り、この日最後に訪れたのが奈良県宇陀市にある山城・宇陀松山城。
以下wikipedia参照
宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城を築いたのに始まる。築城時期についてはわかっていないが、南北朝時代には構えられていたと思われる。また、城名は秋山氏が居城としていた頃は松山城とは呼ばれず、秋山城と呼ばれていた。
天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、改修が行われ近世城郭へと移行した。この間の大規模な改修により、宇陀松山城が大和郡山城や高取城とともに大和国支配の要として豊臣政権に認識されていたことが窺える。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて多賀秀種は西軍に属したため改易され、福島正則の弟福島高晴が入城した。 高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに大規模な改修を行った。近年の発掘調査により、本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってきている。これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と呼ばれるようになったと考えられる。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、高晴は改易され城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。破却の際の小堀遠州の書状が現存しており、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目される。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(166番)に選定された。
時間はすでに16時半過ぎ。道の駅「宇陀路大宇陀」に車を止め、急ぎスタンプの置いてある「まちづくりセンター千軒舎」へ。なんとか滑り込みでスタンプ回収。
暗くなる前に山頂の本丸跡を目指します。
春日神社の横の道を通って登城します。
春日門跡
時間もないので先を急ぎます
しばらく山道を進んで20分程で開けた場所に。山頂までもう一息
雀門跡
本丸に到着
奥にある少し高い場所が天守台です。
白髭大明神
読めないやつ
上からの景色
もう少しゆっくり見たかったが時間の都合で下山。
最後に城下町にある史跡・松山西口関門
内側から
駆け足になりましたが1日で山城3つを堪能できました。
さすがにしんどい。。。
続100名城No.138 越前大野城訪問記
越前大野城(別名:亀山城)は、織田信長の家臣である金森長近が天正4年以降に築いた城です。続100名城に選ばれました。
越前おおの結ステーションというお土産屋などがある多目的広場県駐車場に車を止め、いざ登城。
亀山の南登り口の手前にある柳廼社を通って行きます。
こんな所に石柱が
南登り口
南登り口の入り口にある門
ここから天守のある山頂まで遊歩道を登って行きます。
百間坂
中間を過ぎたあたりに休憩できる広場があります。
土井忠利像
土井利忠は幕末の大野藩主であり様々な藩政改革に着手した名君だそうです。
先に進んで行きます
こういう自販機はついつい撮影したくなる
この階段を登ればいよいよ山頂の広場へ
山頂の入り口の門
お福池
金森長近の正室であるお福の名前が由縁となっている。門を越えて先に進むと見えてくる。
武具蔵跡
資料などを基に推定復元された天守。
中は資料館になっていますが、撮影は禁止。
受付横で続100名城スタンプを回収。
小天守
天守台の石垣は野面積み
武者登り
金森長近像
塩硝蔵跡
帰りは北登り口の方を通って下山しました。
駐車場に戻る途中の城下町を散策
武家屋敷 旧田村家
武家屋敷 旧内山家
百間堀
駐車場に戻った後、城とは反対方向に朝倉義景墓があるのでそちらを最後に見学
墓は義景公園の中にあります。
今回はここまで。
この後勝山城博物館に行ったのですが、それはまたいずれ。